【建物散歩】旧渋沢家〔埼玉県深谷市〕

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2021年のNHK大河ドラマは、渋沢栄一が主人公となりますね。

前回の投稿で原美術館について書いた折り、末尾に、館長(現:財団理事長)である原俊夫氏の曽祖父に触れましたが、原六郎も渋沢栄一も、共に農家(といっても豪農)の出身で、故郷を出て江戸で学び、明治維新前後に海外で学び、日本で近代的金融や産業の立ち上げを推し進めたという共通点があります。年齢も2歳違い死没も2年違いで、同じ時代を駆け抜けました。

渋沢栄一は天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村に生まれました。

血洗島という地名については、赤城山の山霊が傷口をこの地で洗った、とか、武士の一人が切り落とされた片手を洗った、とか、後年、栄一が懐かし気に語っていたと知りました。

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この地に旧渋沢家が現存しています。ただし栄一自身の生家ではなく、堂々たる正門を潜り抜けると眼前に現れる母屋は、明治半ばに建てられたものです。故郷を出て江戸、京都、パリにも滞在し、明治の東京でもいくつもの広大な屋敷を構えた栄一は、この家を懐かしんで何度も「帰って来た」そうです。

私が訪れた数年前は、大河ドラマも紙幣の計画も明らかになっていないころで、他に観覧者はなく、私一人でゆっくり説明を聴きました。

 

栄一がくつろいだ座敷と庭

  

 

母屋は、屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓がある典型的な養蚕農家の外形をしています。

養蚕と藍づくりは、栄一が育った家でも地域でも、農業と手工業をないまぜにした中心的産業でした。日本は、開国後は絹糸の輸出によって、農業と近代的産業を結びつけ、流通の広域的インフラのボトムアップと経済的な暮らしのレベルアップをかなえ始めました。個人の記憶と国策と、たぶんその両方の背景によってでしょう、渋沢栄一は、富岡製糸場の設立にも深く携わっています。

渋沢家は蚕の他に、藍染料の固形化物である「藍玉」の商いもしていました。そのときに使ったしるしが「社章」で、糸巻に糸を巻き付けた形だそうです。同家では「ちぎり(榺)」もしくは「りゅうご(輪鼓)」と呼んでいました。

絹糸も藍玉も、作物をつくり、加工し、運び、保管し、機を見て販売するという、マニュファクチャリングとロジスティクスの組み合わせで経済をまわします。旧渋沢家にはこのしるしが軒瓦に残され、今は、澁澤倉庫株式会社 の社章として残っています。

「中の家」と書いて「なかんち」と呼ばれるこの家は、単に「家屋」の呼び名ではなく、代々の豪農の一族として地域の中核をなす「センター」への尊称・愛称だったと思います。生産センターであり物流センターでもありました。今でも敷地内には下の写真のような大きな蔵が四棟も建っています。

また、副屋は明治後期に建てられ、地域の子どもを学ばせる機能や教師の滞在場所、村の農業協同組合事務所として使われた歴史もあるとのこと。当時の豪農は小作人から利を収奪したから豪農なのではなく、産業育成・教育文化の形で地域に還元、再分配し、地域センターとしてその持続的発展を支える社会的役割を果たしていたのですね。まさに「SDGs」の原型です。

後年の栄一はこう言っています。「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。」・・・現今の政治や経済界のようすを見聞きする中で、噛み締め甲斐のある言葉です。また彼は多くの社会事業にも携わりましたが、「慈善活動も組織的・経済的に行われなくてはならない」と、はっきり言っています。

20年ほど前にアメリカの学者が提唱した「経済的価値と社会的価値を同時実現する共通価値の戦略(CSV)」の本質や、「事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たす組織」という、CO-OP(協同組合)のアイデンティティと共通する考え方が現れています。

 

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さて、渋沢が設立に尽力した企業の一つに日本最初の製紙会社、現「王子製紙」があります。設立の理由がまた素晴らしい。「日本の文運の発達のためには、まず紙が必要」だと。

その製紙工場を見下ろす飛鳥山の地に客をもてなす屋敷を建てましたが、風光を気に入って自らも住むようになり、「曖依村荘(あいいそんそう)」と名付けたこの地で91年の生涯を閉じました。

今は本邸の建物は残っていませんが、大正期に建てた下の2つの建物は戦災を免れ、国の重要文化財となっています。

晩香廬(ばんこうろ)

青淵文庫(せいがいぶんこ)

(なお、飛鳥山公園にはこの他「渋沢史料館」「紙の博物館」、および北区の「飛鳥山博物館」の3館が建っています。)

 

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もう一つの渋沢の家も、幸い現在に伝えられています。

最初、深川福住にあり、三田綱町に移転し、その後、青森県内に移築保存され、まもなく江東区の清水建設の敷地内に再移築する計画があります。これについては、清水建設のホームページに、内容・写真ともに「渾身の」紹介が載っていますので、そちらをご覧になったほうがよいでしょう。 ⇒  https://www.shimz.co.jp/topics/construction/item17/

清水建設がこれほど渋沢邸にこだわるのは、かつて渋沢が長く相談役を務めていたから以上に創業家の清水喜助との関りが強かったからです。渋沢が創立に携わった日本最古の銀行「第一国立銀行」の建物は、清水喜助率いる清水組が、外国人の手を一切借りないで建てたものだったのです。先に紹介した「晩香廬」も「青淵文庫」も清水組が建てました。いずれも「建物散歩」の歴史篇の一つとして、いつか書いてみたいものです。

 第一国立銀行

ちなみに、第一国立銀行のあった場所は、兜町の証券取引所裏手になる開運橋東詰。偶然なのかどうか、現在そこには「銀行番号0001」を引き継ぐ「みずほ銀行」の支店が建っています。

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たけぞーです。建築好き、写真好きです。
このブログも、両方の要素がクロスすればいいな、と立ち上げました。
たけぞー(takezo)が街を歩きまわるから"take-a-walk"なのです。
現在はビル設備管理の仕事をしつつ、家族が営む不動産事業をサポートしています。

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