【建物散歩】戸定邸(とじょうてい) 〔千葉県・松戸市〕

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渋沢栄一を主人公とする大河ドラマに刺激を受けて、深谷(血洗島)の家や飛鳥山の邸宅についてアップしたのが春。もうすぐドラマは終わってしまいますが、やはり幕末から明治にかけての舞台だといろいろ所縁の場所が残っているもの。  

松戸市の丘の上にある「戸定邸(とじょうてい)」を数年前に訪れた時も、建物や庭園の美しさに魅かれたのはもちろん、パリ万博に行った人たちという遠い知識だけを頼りに展示物を見たつもりでしたが、それでも「ああ、あの慶喜の弟なのか…」程度にしか意識できていませんでした。

俳優・板垣李光人さんが徳川昭武が住まいとした国指定重要文化財「戸定邸」を訪問しました

しかし、この人、板垣李光人という19歳の美少年の、役者としての肉体化を通して、昭武という少年が歴史の狭間に揺れた具体を掴むことができ、この建物で暮らした彼の心をすこし理解できるようになりました。幕末の貴人がおじいさんになってから住んでいたものと勝手に思いこんでいました。

昭武は10歳で動乱鎮撫のため京都に出役、11歳で禁門の変を経て天狗党討伐に出陣。13歳でパリ万博に。帰国後の15歳で水戸藩主に。維新後22歳で陸軍学校教官となり、24歳でフィラデルフィア万博へ派遣、そのままフランスに渡り再留学、欧州歴訪の後28歳で帰国。29歳で家督を甥に譲り、30歳(明治17年)の時からこの戸定邸に隠棲したのです。

何年に何が、と記すと歴史の断片になりがちですが、何歳で何を、と辿ってみれば、この人の人生前半の波乱と後半の平穏の対比が見えてきます。兄の慶喜とよく似て、歳は離れていても同じ時代を駆け抜けたのだと感じられ、この兄弟の仲の良さが得心できます。写真や狩猟など共通の趣味人としても、その交流は強いものとなっていきました。

明治40年ごろまで慶喜は度々この戸定邸を訪れていますし、有栖川宮、皇太子(後の大正天皇)も来ています。

昭武は病を得て、旧水戸藩下屋敷跡の小梅邸(東京・向島)において明治43年、56歳で亡くなりますが、その少し前までここで暮らしていたのです。

松戸は江戸川を巡る舟運の中継地として江戸時代から賑わっていました。江戸川に橋はなく、松戸と金町・柴又を結ぶ渡し船も多くあり、今に残る「矢切の渡し」もその一つ。戸定邸はその江戸川を望む台地の上、戦国時代の古い城郭の一部に位置します。東京の向こうに富士山まで眺められましたが、残念なことに今は金町駅前のタワーマンションに隠されてしまいました。

玄関棟から奥向きまで、全体がほぼそのまま残っている明治期の上流階級の屋敷としての価値から、9棟のうち8棟の建物が重要文化財となっています。

また、庭のほうは一面が芝生の洋風庭園として日本最古だそうで、昭武が長い海外生活で得た感覚が活かされているとみるべきです。庭は長い時の中で改変されていましたが、昭武自身が撮影していた写真を元に石組みなどが復元されたとの話でした。幼い時から写真に姿を残し、欧米で暮らしたこともある昭武は、西洋作庭やフォトガラフの魅力にハマっていたのです。

旧徳川昭武庭園復元記念展 「いま甦る明治の庭」

戸定邸全体のことについては、ご紹介したリンク先に詳しいので、私の心に引っかかった建物の「部分の美」をどうぞ。徳川の「葵」をモチーフとした精緻な装飾が随所に施されています。

今回は「建物散歩」ではなく、どちらかというと「歴史さんぽ」でしたね(笑)

〔所在地:千葉県松戸市松戸714-1〕

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たけぞーです。建築好き、写真好きです。
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現在はビル設備管理の仕事をしつつ、家族が営む不動産事業をサポートしています。

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