有楽町ガード下と言えば赤ちょうちんの連なりは有名ですが、その新橋方面への延長上に、「日比谷OKUROJI(奥路地)」という新しい商業施設が2020年9月に生まれました。いや生まれたはずです。
…というのは、オープン後、私は行ったことがない。不要不急の外出となるので(笑)。行ったことがないところをこの「散歩道」で取り上げるなど邪道であるのは承知の上ですが、過去に向けて旅をする「コロナ対応型・散歩道」もありかな、と書き進めてみます。
行ったことがないから、それぞれの商業施設のWEBからイラストを拝借しました(感謝)。
東京駅から南方向、有楽町を経て新橋の先まで鉄道線路の下を煉瓦のアーチが続いています(上)。ここが「日比谷OKUROJI」にリノベーションされました。北方向も、神田万世橋のあたり(秋葉原近く)が「マーチエキュート神田万世橋」という商業施設に生まれ変わっています(下)。
この煉瓦のアーチの連なりは、実は明治44(1911)年に完成した日本で初めての「鉄道高架橋」なのです。その建設中の写真が残っています。アーチ型の木枠の上に、材料となる煉瓦が高く積まれていますね。
これは明治の初めに「汽笛一声」新橋から横浜まで開通した日本で初めての鉄道線路とはまったく違うものです。
新橋からの鉄道は高架橋ではなく、東海道沖の遠浅の海に堤を築いて、その上を走りました。この築堤については最近新たな発見があったので別の機会に触れたいと思います。
明治の半ばまで、東京から南方面へは新橋駅が起点、北へは上野駅が起点で、全国に多くの鉄道網が敷かれました。鉄道建設に多額の費用を充てたのも、遠くに物や人を運ぶための手段として重視されたからです。しかし、江戸時代以来の運河や道や徒歩交通がすでに高度に発達した都市、東京の市街の中に鉄道を敷く優先順位は低かったのです。
バイパスとして東京の西の田畑を南北に貫いて品川ー赤羽を結ぶ鉄道が出来(いまの湘南新宿ラインですね)、その後、飛躍的に増大した都市部の物流を支えるため、やっと明治の半ばに都市部を貫く鉄道が計画されました。
都市部なだけに「人馬の通行」(荷物を運ぶ馬も普通にいたのでしょう)を妨げず、鉄道の下を往き来できるよう「高架橋」として建設されたといわれています。
明治の煉瓦アーチ表面は古びても、コンクリートで補強されながら、今でも山手線などの大動脈を支え、その下でも、庶民の胃袋と暮らしを支えるというDNAを受け継いでいます。