旧渋沢邸である日証館ビル【地図のA点】から堀割り(現在では埋め立てられて首都高。元の「楓川」)ひとつ挟んで、「日本橋ダイヤビルディング」があります【B点】。
震災復興の東京で建設され、昭和5年末に竣工した「江戸橋倉庫ビル」がその前身です。
もともと日本橋(魚河岸周辺)から江戸橋を経て小網町のあたりまで掘割(日本橋川)沿いは土蔵がひしめく水運の街でした。大都市江戸の物流拠点だったわけです。
廣重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれた小網町と明治期の写真に写る小網町。浮世絵は決して誇張ではないことがわかります。
岩崎弥太郎は、江戸橋のたもとの土蔵群を活かして郵便汽船三菱の荷捌所を明治9年に開設しました。その後、渋沢・三井・政府連合との日本の海運を制する激烈な戦いの時を経て、明治18年に弥太郎はこの世を去ります。
その翌19年には三菱の近代化の象徴ともいえるレンガ造りの通称「七つ蔵」に建て替わります。軒先には「スリーダイヤ」のマークが掲げられました。
江戸橋のたもとには郵船三菱と日本最初の郵便局が軒を並べていました。日本の郵便事業の創業は、前島密が道筋をつけ、そのあとを、渋沢栄一と一緒にパリ万博に派遣された杉浦愛蔵が制度確立させたのでした。三菱のビルと日本橋郵便局は今も隣り合わせに建っています。
なんというか、渋沢邸、三菱の倉庫、郵便創業の地、日本初の銀行・証券取引所・・・と辿って自分の脚で歩いてみると兜町界隈のたった100m四方に、明治創生の物語が凝縮していることに驚いてしまいます。
さて関東大震災被災で七つ蔵は焼損。都市再生の一環で昭和通りが作られるのに合わせ、江戸橋も少し場所を移して架け替えられることになり、旧橋の南詰めの位置に、「江戸橋倉庫ビル」として生まれ変わりました。昭和5年(1930年)竣工。
船のように緩やかな曲線の建物とブリッジのような塔屋は、それから約80年、日本橋川の水面に姿を映してきました。この優美な建物は平成の世に東京都選定歴史的建造物に指定されてもいます。
このように時代ごとの脱皮を繰り返し、さらに今回は既存の外観をほぼ残しながら内側は最新機能を備えたオフィスビルに建て替える文字通りの「脱皮」を果たし、2014年9月「日本橋ダイヤビルディング」として再生します。
高層部は賃貸オフィスとなっていますが、外観を残した低層部には三菱倉庫本社と「トランクルーム」が入り、エントランスホールには日本橋界隈の変遷や倉庫業の歴史を展示するスペースや親水空間を設けられています。
「外観だけ」という残し方に建築物完全保存の立場から批判をする人もいますが、この優美な建物の雰囲気が水辺に残って良かったと、私は心から思います。
「その外観だけ」残すにも多くの工夫・苦労があったことが、次のリンク先から読み取れますので、紹介します。
「新しい建物は、古い建物の上に載っているのではなく、古い建物の内側に建っている。・・・今回の工事はまず、古い建物の地下をくりぬくところから始まった。」・・・という記述に引き込まれます。江戸時代初期における「江戸前島」周辺の埋め立て工事を経た、水辺空間の成立が垣間見える興味深い内容も出てきます。
〔三菱ダイヤビルディング所在地:東京都中央区日本橋1-19-1〕