すでにこのブログでは、渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマや、生地に残る家に触れました。
ドラマはこの記事を書いている時点ではもう5回目を迎えていますが、放映スタート以前に、東京・北区の飛鳥山の地にある渋沢資料館と、栄一が晩年を過ごしたこの地に残る二つの建物を訪れてきました。
飛鳥山は、徳川七代将軍吉宗が庶民の行楽地を増やす企図で桜の苗木を植えさせ、十分に育てたうえで開かれたものです。遠く筑波山も望める高台で、桜や行楽を愉しむ様子が浮世絵にもよく描かれました。
明治の初めに国から「公園」の一つとして指定され(上野・浅草・芝・深川および飛鳥山)、現在は北区管理の公園となっています。
渋沢が提唱した日本初の抄紙会社(現:王子製紙)は、王子すなわち飛鳥山のふもとで創業しました。その直後に栄一は飛鳥山に隣接する8千坪を超える土地を買い入れています。国内外の賓客をもてなす迎賓施設として明治12年(1879年)に竣工したのが「曖依村荘(あいいそんそう)」です。漢詩に由来する「落ち着いた空間をゆるりと愉しむ」というような意味だとか。栄一はいたくこの家を気に入って、明治34年(1901年)から亡くなるまでの30年、自身の本邸として住み続けました。
残念なことに第二次大戦で空襲により大部分が焼け落ちたのですが、2つの建物「晩香廬(ばんこうろ)」「青淵文庫(せいがいぶんこ)」は戦災を免れて今もこの地に存在し、国の重要文化財となっています。
今回は「晩香廬」。渋沢自作の漢詩「菊花晩節香」から採って名付けられたようです。晩節を汚すことなく喜寿を迎えた栄一に、清水組(現清水建設)四代目当主、清水満之助が贈った建物です。大正6年(1917年)竣工。
延べ床面積72㎡と小ぶりですが、材料、内外の装飾・意匠、家具に至るまで吟味され、技と美のショールームのよう。繊細で丁寧な造作がどこを見ても美しい。
渋沢栄一が、清水満之助の祖父である二代目喜助を見込んで、建設会社として一人前に育ててきた(長年、相談役だった)ことへの深い感謝の気持ちから、この素晴らしい建物で恩返しをしようとしたのです。清水建設は、現在にいたるまでも渋沢に因む建物の修築や移設保存について、会社の根源的な責務かのように積極的に関わっています。
私が訪れた時には建物の周囲を整備工事中で全体像が撮れませんでしたし、室内撮影は禁止なのです。
外観は清水建設のWEBより拝借しました。
眉唾ですが「晩香廬」は「バンガロー」をもじった、との説も耳にします。まあ、それ風の外観と言えば言えるかもしれません。
しかし、素材と意匠の美しさと言ったらない。
土壁は鉄の粉を混ぜて錆を浮かせる凝った左官の方法で落ち着いた色合い。
これに焦げ茶とも深緑とも見える微妙な色合いのタイルを埋め込んでアクセントに。
これらが鈍い赤の瓦で葺いた屋根と落ち着いた調和を醸し出します。
内部の柱、廻縁、建具の枠も栗の木をたっぷり使い、「ちょうな」の刻み跡を活かすなどで、重厚。
ステンドグラスはガラスや貝もははめ込んで落ち着いた輝きを提供しています。
照明器具も、もちろんオリジナルの意匠です。
室内の美しさも共有したく、ステンドグラス中心のサイトですがご紹介します。https://kyukon-stained-glass.net/gallery/bankouro/
次の3点の写真は、そこから転載させていただきました。
船底天井には石膏で鳥獣や葡萄をあしらった縁取りがほどこされ、
中央には、鶴をモチーフとした枠に貝を貼った凝った照明器具が下がっています。
暖炉まわりは暗紫色のタイルと栗の木を組み合わせた重厚な一角。中央には陶のタイルで構成する「壽」の文字が浮かび上がっています。
茶室を細部に凝ってつくるように、設計者である清水組 五代目技師長の田辺淳吉が「数寄屋」の心を西洋建築において実現したのです。
(「晩香廬」所在地:東京都北区西ヶ原)